日本の常識を疑え!マギーさんが伝えたい「生き方」を追求したライフスタイル

マギーさんの家族写真

今回は、根羽村で一般社団法人ねばのもりを立ち上げ、地域に寄り添った活動を行っているマギーさんこと、杉山泰彦さんに取材を行いました!帰国子女として日本に帰ってきてから、根羽村に移住をするまでの決意や葛藤を赤裸々にお伺いしました。

どんな想いや課題を見つけ、現在のキャリアにたどり着いたのか、ご自身の経歴とともに掘り下げていきます。

就職活動に悩む学生や、「働き方」に疑問を持つ社会人、そしてライフスタイルを模索する全ての人に読んでいただきたい記事となりました。

海外経験を経て、日本の常識を疑えるようになった

新芽

ー幼少期は海外で過ごされていたとのことですが、いつ頃日本に戻られたのでしょうか。

マギーさん:海外で中学を卒業して、日本に戻ってきました。それからは高校はICUの帰国枠で推薦で進学し、大学まで進みました。

 

ーマギーさんは就活時、何を重要視して入社されたのですか?

マギーさん:僕はスーツを着る就活が嫌で、就活をしていなかったんです。就活が始まる瞬間にみんながスーツを着だしたことが違和感でしかなかったんです。みんなどんどんつまらなそうな顔になっていって、そんなみんなを見ていく中で、同じ道をたどっても幸せになれる自信がなかったんです。

 

ー日本の就活が嫌だった理由は、海外生活が影響しているのでしょうか。

マギーさん:そうですね。いきなりスーツを着て就職活動をするという文化はなかったですね。海外で過ごした経験から、日本の常識を疑える価値観や自由さを身に着けて戻ってこれたと思っています。

まずはインターンをして、下積みから実績を作って、その実績を自分が入りたい会社に売り込むというのがアメリカのスタンダードな就活の仕方でした。日本でいうと中途の転職活動みたいなイメージですね。僕は海外の就活の文化も知っていたので、両方を比較した上で、アメリカの就活スタイルのほうがしっくり来ていました。そっちのほうが、自分らしさをより出せると思うんです。そうして、スポーツマーケティングのベンチャーでインターンをはじめました。

 

ーインターンを経て、どのようなキャリアを歩まれたのか教えてください。

マギーさん:当時大学の単位はほとんど取り終わっていたので、周りが就職活動をしている中、僕は大学3年生の終わりから4年生の最初までインターン生として社員と同じように1日ぶっ通しで働かせてもらっていました。

そして、4年生の秋には、その会社から内定をもらえたのですが、何か違うなっていう感覚が芽生えてきたんです。
結局僕の中で、スポーツはすごい好きだったし、商材として扱うのも好きだったけど、あまり手段に対して自分のこだわりがないと気づいて。どちらかというと目的とか、どんな人と一緒にやるかということの方が、自分にとっては幸福度が高いことに気付いたんです。そして、自分の次の働き先を探し始めたときに出会ったの株式会社CRAZYという会社でした。

 

就活のスタンダードを変えたかった

新聞と紙と本とペン

CRAZYさんのどんなところに惹かれたのでしょうか。

マギーさん:㈱CRAZYに入社しようと思った決め手は、「就活を変えられる」と思ったからです。4年の後半は、みんな就職活動を終えている時期だったんですが、みんなつまらなくなってしまったんです。絶対そんなところはお前が輝く場所じゃないだろって(笑)大手に入れたとイキイキしている友人を見るとダサく思えてきて、悲しくなったというか、自分の好きな人がそうなってしまったことが凄く許せなかったんです。そして、悪の根源は『就活』だという結論に行き着き、このスタンダードを壊したいと思いました(笑)

日本はキャリア教育の場がなさ過ぎて、就活のタイミングまで自分がどう生きたいかとか、何をしたいかということを考えさせるきっかけがないんですよね。そして、いきなり就活が始まった瞬間に考えさせて、いついつまでにエントリーシートを出しなさいみたいな、時間的な期限を設けることがものすごく本質からずれていると思うんです。もっと早い段階からキャリア教育、キャリアを考えるきっかけっていうのを提供していくような場が生まれてないと、これは解決できないと思ったんです。

㈱CRAZYで働く人たちは、型にはまらない働き方や考え方をしていて、とてもかっこよく見えました。こういう人たちがいるということをもっと世の中が知れれば、もっといろんな人がいろんな選択できるんじゃないかと思い、入社を決めました。

当時の㈱CRAZYは、創業期で、僕は新卒一期生としての入社でした。「働き方の改革」に興味があった僕は、人事や、マーケティングに関わるお仕事を任せていただいていました。「働くが楽しくなれば、楽しく生きる大人が増える。」そう思い、㈱CRAZYで人に関わる仕事をしていました。

 

CRAZYさんで、マギーさんのやりたいことは実現できたのでしょうか。

マギーさん:できた部分はもちろんあります。まず、㈱CRAZYが行う就活イベントは、すごい集客力があるんです。イベントの中にエンタメ性とクリエイティブを導入してやっていたので、200人〜300人は簡単に集められました。
結局その人たちが入ってくるかどうかは僕にとってはどうでもよくて、その300人が「働く」ということにアンテナを立ているタイミングで、世の中ってもっとこういう選択肢や生き方があるんだよ、という想いを発信できる舞台があることが価値だと思うんです。㈱CRAZYは、組織のあり方としても、かなりチャレンジングだったので、そういうところに興味関心を持ってくれた学生はたくさん居ましたね。

 

心の底から生きることを楽しんでる人に出会った

カフェに集まる人々

地方に興味を持たれたきっかけを教えてください。

マギーさん:奈良県の東吉野村という、人口2000人の村で、坂本大祐さんに出会ったことがきっかけです。山奥で生き生きと自分のやりたいことをやって、地域を盛り上げている大祐さんの姿をみて、「1位を獲る、それだけが成功者の道ではないかもしれない、大佑さんみたいな40代ライフを生きてみたい」と考えるようになりました。僕の人生観を大きく広げる方でしたね。

 

ー当時の働き方では、実現できない生き方があったのでしょうか。

マギーさん:そうですね。当時の自分も自由に働けていると感じる部分はありましたが、資本主義の図に飲み込まれてしまっているような感覚や、ヒエラルキーの上を目指さなければいけないと、日々歯を食いしばりながら生きている自分もいたんです。そんな時に、本当の意味での『生きるを楽しむ人』を目の当たりにして、「移住」という選択にとても魅力を感じました。

すぐにでも移住をしたいと思っていましたが、東吉野村の人たちは、稼ぐ力や生きる力を一人ひとりがしっかりと持っていて、自立している人ばかりだったんです。だからこそのびのびと、生き生きと暮らすことができるんだと腑に落ちた部分もあり、まずは自分自身もそういう力を付ける必要があるなと考えました。

 

ーその後はどのようにその「力」をつけていったのでしょうか。

マギーさん:偶然にも㈱CRAZYが私がまさに興味のある事業を始めることになったので、しばらくは村の古民家を回収するプロジェクトを中心に担当させていただきました。事業はうまく行っていましたが、1年後、自分が㈱CRAZYで働いている姿がどうしてもイメージできなくなってしまったんです。もっと地域に寄り添ったプロデュースを行いたいと思い、株式会社WHEREという会社に転職をしました。

※株式会社WHERE・・・地域プロデュースを行う会社。地域の生産者と全国の消費者を結ぶ、新たな担い手である地域プロデューサーとしてコンセプトメイキングや、地域資源を活用した企画づくり・PRを行う。

 

ー「地域プロデューサー」として関わった地域は20、足を運んだ地域でいうと100近くとお聞きしましたが、一番印象に残っている取り組みはありますか?

マギーさん:全てですね。WHEREでの仕事は、自分の人生の中でのインパクトがとても大きかったです。100以上の地域に営業をしたのはその時が初めてで、片道6時間以上もかけて営業に行ったけど何も成果を得られなかったこともあったり、挫折もたくさん経験しました。

ですが、その営業活動の中で、一番最初に案件をくださったのが、現在移住をしている『根羽村』と、山梨県の富士吉田市というところなんです。この2つの地域には、今でも返しきれない感謝がありますね。

 

ー地域をプロデュースするにあたって、日々意識していることはありますか?

マギーさん:自分が一番その地域のファンであることですね。やっぱり表に見えることだけが全てじゃないんです。これは実際に足を運んで、その地域に住む人と触れ合ったからこそ分かったことです。数字やプロジェクト自体はうまく行っているように見えても、ずっと何か越えられない壁があるんです。僕と、その地域との間に。

その理由は簡単で、僕はその地域で暮らしていないし、地域の中で活動するという経験が圧倒的に足りなかったから。その気づきがあってからは、全部を理解することは難しいですが、少しでも近づけるようにその地域のリアルな部分や見えない部分を大事にするようになりました。

そして地域との関わり方を追求していった結果、『根羽村』に移住をし、そこで暮らしながら地域の方と発展を目指すやり方に切り替えることを決意しました。

 

もっと地域の中に入り込み、ど真ん中で勝負をしたいと思ったマギーさん。
こうして根羽村での移住生活が始まります。

***

今回は、自分の在り方を模索し続け、「移住」という選択肢にたどり着いたマギーさんに取材を行いました。

時代の流れに伴い「働き方」ではなく「生き方」が問われる社会になってくるなかで、日本の地域にあるライフスタイルに興味を持ったというマギーさん。

豊かな自然と、それぞれの土地にある文化を活かした新しいライフスタイルを実現させる人々の存在を知った時に、「生きるを楽しむ」ことの素晴らしさに気づいたといいます。

 

マギーさんの根羽村での移住生活についてもっと知りたい方は、こちらの記事を是非チェックしてみてください!

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子どもと触れ合う移住をしたマギーさん

 

杉山泰彦さん(マギーさん)
すぎやま やすひこ|地方起業家


1991年生まれ。小・中学生時代をアメリカ・シアトルで過ごした帰国子女。日本に戻ったあとは、ICUに進み、大学卒業後は東京のベンチャー企業、株式会社CRAZYと株式会社WHEREで約5年働く。そしてある時、人生を変える坂本大祐さんと出会う。「生きるを楽しむ」を追求し、現在は根羽村で一般社団法人ねばのもりを立ち上げ、地域に寄り添った活動を行っている。

一般社団法人ねばのもり:https://www.neba.green/
根羽村HP:http://nebamura.jp/

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